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15歳で学業の傍ら、働くことへの情熱が芽生える。イスラエルから来日し、言葉や差別の壁を乗り越えてパッションを武器に起業した広告代理店の女性経営者

中村 シバンさん 30代 代表取締役
SivanS株式会社


1978年生まれ。2001年に来日。洋雑誌の営業、金融会社でコミュニケーションマネージャーを経験し、広告代理店のアカウントエグゼクティブのプロジェクトマネージャーを務める。2010年、フリーランス契約で広告代理店に入社後、2011年に起業。SivanS株式会社の代表取締役に就任。

SivanS株式会社の代表取締役の中村シバンさんは来日後、全く仕事がなかった状態から会社経営者にまでキャリアを前進させてきました。そのパワーの源は仕事への情熱と他人とは違う絶対的な個性。中村さんが現在に至るまでのプロセスを伺いました。

働き始めたのは15歳
自分の特別なスキルはコミュニケーションだと確信したウェイトレス時代

―15歳の時にウェイトレスの仕事をしながら学校に通っていたそうですが、そのときのことを教えてください。

中村:私が学校に通いながら働いていたのは、両親が厳しくて小遣いをなかなかもらえなかったからです。洋服を買ったり、友だちと遊びに行ったりするときのお金を稼ぐために働いていました。それでも働くことが大変だと思ったことは一度もありませんでしたね。むしろ、勉強と仕事の両立は私にとって、とても楽しく学びの多い経験だったんです。

ウェイトレスの仕事はコーヒーを運ぶだけではありません。居心地のよいお店だと思ってもらうために世間話をして、自分から積極的にお客さんとコミュニケーションをとっていかないといけないんです。ウェイトレスの仕事を経験したことで、自分は仕事ができるという自信が持てるようになったし、自由に使える小遣いも増えて、日々の生活のモチベーションがアップして勉強のやる気も出ました。また、お金に対する気持ちも変わりました。やはり自分で稼いだお金なので、大切に管理するようになりました。

学生時代はそんな風に仕事と勉強の良いバランスを保っていたと思います。母に小遣いをねだるどころか、兄弟に小遣いをあげていたくらいでした。

―ポジティブにお仕事に取り込まれていたのですね。当時からその後のキャリア設計についても考えていたのでしょうか。

中村:私がウェイトレスの仕事を選んだのは、人とのコミュニケーションが好きだったからです。他の人が何を考え、どのように生活をして、何を仕事にしているのかということにとても興味があったんですね。だから、絶対に将来は人と関わる仕事がしたいと学生の頃から思っていました。

ウェイトレスの仕事をして良かったのは、コミュニケーションやセールスのスキルがアップしたこと。大勢のお客さんが来店したときにも、ただ注文を受けるだけではなく「こちらもオススメですよ」と必ず何かをセールスするようにしていました。そうやって、コミュニケーションやセールスのスキルを自ら磨いていったんです。そのときから「私はPRやセールスなど、コミュニケーションが必要な仕事が向いているに違いない」と思っていました。

―学生のうちから、PRやコミュニケーションのスキルがあることを実感できたんですね。

中村:当時はまだ15歳だったので、マーケティングのことなどは全くわかりませんでしたが、自分にはコミュニケーション、セールスに加えて、リーダーシップのスキルもあると思っていました。私は6人兄弟の末っ子だったのに、いつも兄弟のリーダーシップを取っていたんですよ(笑)。兄や姉は心配性だったので、私がアイデアを出してリードしていました。大人と話をするのも大好きで、お店でも「どんな仕事しているんですか?」、「将来のために何を勉強しておいた方がいいですか」といった質問をして、お客さんやスタッフに教えてもらうのが大好きでした。本や新聞を読んで情報を集めないとわからないようなことも、キャリアのある大人に教えてもらえるのでラッキーだと思っていました。

話しているところ

21歳、バックパッカーでイスラエルからオーストラリアへ!
そこで夫と運命の出会い

―来日される前は、バックパッカーでオーストラリアにいたそうですね。

中村:そうです。でも、オーストラリアに行く前に軍隊に入りました。イスラエルでは女性にも兵役があり、18歳で軍隊に入らないといけないんです。軍隊はタフでないとやっていけない世界なので、かなり鍛えられました。そのまま2年間が過ぎて心身ともに疲れきってしまい、リフレッシュしたくて、仕事で貯めたお金で昔から憧れていたオーストラリアに行くことにしたんです。

オーストラリアには21歳から22歳までの1年間滞在しました。観光だけではなく、ヘブライ語の先生やピクルス作りなどの旅行者のための仕事をしながら過ごし、おもしろい経験をたくさんしました。オーストラリアには旅行者同士の情報交換ができる専門のコミュニティがあって、自分の希望条件を添えて仕事をリクエストすると、適した仕事を紹介してくれる人がいたんですよ。私は好奇心旺盛で何でもやりたがるタイプなので、仕事以外にも学生同士のミーティングに参加したり、いろいろな場所に足を運んでみたりして、海外では何をやっても勉強になると思っていました。

―充実した日々を送られていたんですね。1年間のオーストラリア生活のあとは、どういうプランを立てていましたか。

中村:実はオーストラリアのメルボルンで、とても素敵な日本人男性と出会ったんです。それが今の夫です。一緒に2~3週間旅をした後、彼と2人でイスラエルに帰りました。でも、その時の私たちはノープランだったので、そこからが大変!父は私が日本人と付き合うことをあまりよく思ってはくれませんでした。でも、2人とも旅行でお金を使い果たしてしまっていたので、どうにもできなかったんですよ。

イスラエルでは兵役が終わったら大学に進学するのが普通なのですが、私には大学に行くお金が残っていませんでした。とにかく稼がないといけなかったので、またウェイトレスの仕事で稼ごうと思ったのですが、急に彼が日本に帰りたいと言いだしたんです。その時の私は大学も出ていないし、日本語もできないし、英語も教えるほどはできないという状況でした。こんな状態で日本に行って大丈夫なのだろうかとかなり悩みました。でも彼を愛していたし、もしかしたら自分の人生の新たなスタートになるかもしれないと考えました。それで「私ならきっと日本でもやっていける」と自分を信じて、彼と一緒に日本に行くことに決めたんです。

日本語ができないまま就職活動
キャリアはウェイトレスと軍隊だけど、入社して3カ月間トップセールスの記録!

―日本に来てからはどんな風にキャリアを築いていきましたか。

中村:もちろん、日本でキャリアを築くのは簡単ではなかったです。私が来日したのは、ちょうど2001年。当時はまだフェイスブックのようなSNSはなかったし、今のようなインターネット社会ではありませんでした。彼の家でご両親とも同居していたので、日本語は彼のお母さんから教わりました。

彼が帰国してすぐに働き出したので、私も就職活動を始めたのですが、当時の「日本語が話せない外国人」の私はすべての会社から「ノー」と言われ、雇ってくれる会社はありませんでした。それでも、とにかく行動しなければと思って、綺麗にラッピングしたドライフラワーのアレンジメントを作って、自転車を使った訪問販売を始めてみたんです。その時は、まだ22~23歳だったので、他のお花屋さんよりも安いから日本人は買ってくれるだろうと思っていたんですよね(笑)。

頑張って作ったのに、全く売れなくて悲しかったです。それでも私は日本の会社で働くことを諦めず、仕事を探しながら新しいアイデアや、自分にできることを考え続け、次のステップが来るのを待ちました。